や16ぁ

やる気なんて初めから無かったんだなぁ

らしくないのだが書かないと心の整理がつかないので書くこと

私は東京で生まれた。
当時両親は東京で働いており、母方の実家で1歳半まで過ごした。その後、父親の故郷である富山に移った。そのころはまだ上越新幹線は無く、飛行機で移動した。その飛行機もプロペラ機だった。後に見たアルバムには、私たちが乗ってきた飛行機の写真とともに、家族に囲まれ、中央に祖母と祖母に抱かれた私が写っている写真があった。その祖母が2011年3月31日に亡くなった。鳥取の職場で母から祖母の意識が無くなったとの連絡を受け、すぐさま富山に帰ることにした。努めて落ち着いて行動しようとしたのだが、直属の上司に説明しようとしたところで早くも1言葉に詰まってしまった。祖母が亡くなったという連絡を受けたのはその直後だった。あまりにもあっという間だった。
最速で、ということで羽田空港経由で飛行機で移動した。おそらく現時点で最速の移動手段だが4時間かかった。移動の間、ずうっとその写真のことが頭に浮かんでいた。
祖母は東京で勉強をし、戦争が激しくなってきた頃に富山に帰って家庭科の教師になったという。私の父や叔父も祖母の教え子だった。教師時代の写真には何かギラギラとした力強い迫力があった。給食指導で文部大臣賞を受賞するなど、素晴らしい先生だったようだ。50歳で教師の仕事を辞し、その後で私が生まれたため、祖母が教師だったことは伝聞でしか知らない。私にとってはいつも私の面倒を見てくれたばあちゃんであった。
私は子供の頃小児喘息で苦しんでいた。今では症状は改善したが、慢性的なアレルギー性鼻炎だし、猫に限っては今でも喘息の発作が起きてしまう。両親が共働きだったので、私は祖母に連れられて病院に行ったり、お寺にお参りに行ったりした。宗教に病気を治す効果はないと思うが、そういった愛情を受けてきたからこそ、私の病状は改善したのだと思う。
私が大学に進学し、就職するにつれて、距離的な理由から祖母と顔を合わすことも少なくなった。特に就職してからは盆と正月だけの対面となった。そんなある年、祖母が玄関で転んで骨折してしまった。最初は怪我を治すための入院だったのだが、だんだん体は衰えてゆき、うまく話すこともできなくなっていた。本人もそれを自覚していたのか、以前に比べて口数が大きく減った。それでも、私が会いに行ったら笑顔で話してくれた。祖母がおしゃべりしてくれるだけで私は嬉しかった。亡くなった今となっては、悲しさや寂しさというより、喪失感が大きい。心のなかの一部分が突然薄ら寒くなるような凍えそうな感覚がある。
祖母はこの世を去り、死出の旅路に出た。通夜、葬儀のときに唱える念仏は故人の旅を導くためのものであるという。だからかけるべき言葉は「安らかに眠れ」ではないし、別れの言葉でもない。「ありがとう」であり「いってらっしゃい」であり「また後で」なのだと思う。私が運良く——じゃなかった人生を全うして天国に行ったときに、また祖母と会えるのだろうきっと。
ばあちゃんへ、今までありがとう。そしていってらっしゃい。無事に旅を終えられるよう、祈っています。

というわけで、明日からアマガミプレイ日記が始まるのだった。