や16ぁ

やる気なんて初めから無かったんだなぁ

耳すまはぼくたちにひどいことをしたよね(´・ω・`)

昨日の耳すまについてコメント欄で答えるにはあまりにもボリュームの多すぎるコメントが来たので、良いネタになることだし単一のトピックにしようと思う。

◆原作と大きく違う事、
◆原作者の「柊あおい」が宮崎駿に言い寄って金儲けに加わったとしか考えられない(偏見)と言うこと
◆元彼氏がこの映画が大大大好きだったので、上記理由を述べて古本屋で100円で見つけた原作のコミックスを「ほらこんなに違うんだよ」と言って貸したのだが、その本が未だに返ってこないこと

好き嫌いはまぁ置いておいて、上記の項目について検証してみたいと思います。まず、原作と大きく違う点について。
知らない人のために説明しておきますと、本作の原作はりぼんマスコットコミックスとして刊行されているタイトルもそのものズバリ「耳をすませば」です。その後、映画化にあわせて雫が中学3年の時を舞台とした「耳をすませば 幸せな時間」という続編も存在します。映画に登場する登場人物はほぼ全て登場しますし、マンガに登場したシーンは映画版にも大体満遍なく登場しますが、以下の点で映画版とマンガ版は異なります。

・マンガ版では聖司の兄航司が登場し、雫の姉と知り合い。その上結構重要な役どころである。
・マンガ版では聖司と雫は中学2年生。映画版では3年生。
・(中2だからか)聖司も雫も進路を特に意識しておらず、聖司はバイオリン職人になるという夢もない。むしろ聖司は絵が得意っぽい。
・雫の母親は別に大学に通っていない。どうも普通のオカンっぽい。

とまぁこんなところでしょうか。あとは大体原作通りに進みます。これがまた意外なほどに原作にあった場面を使ってきます。さて、なんで原作と大きく違うかというと、上記に挙げたオカン以外の項目が物語の根幹に大きく関わってくることにあります。つまり、原作は聖司×雫×航司×雫姉のユルいラブストーリーで、映画版は聖司と雫の進路選択をメインに盛り込んだ甘酸っぱいラブストーリー。進路選択という現実的なネタを盛り込んだだけで10倍は話が重くなるわけです。映画版の脚本は宮崎駿なので、この辺のネタはパヤオによる原作クラッシャーといえます。後に柊あおい自身が、もし原作を続けていたらこういう展開になっていただろうと発言したらしいという話もあるのですが、その辺は次の項目に絡んできます。すなわち柊あおいパヤオに売り込んだのではないか?という話です。
そう思われても仕方のないところに、「耳をすませば」の原作は打ち切り作品であったということが挙げられます。初回で打ち切りが決まったとの話もあり、確かに話も上っ面なめるだけで終わっている印象があります。まぁ、宣告が早かったおかげで話自体はそれなりにまとめられたみたいですが、それでもやはり傑作には程遠い作品だったわけです。
で、映画化の経緯について「〜幸せな時間」の方に掲載されているのですが、「耳をすませば」を連載していたのが「魔女の宅急便」公開時で、その後ジブリの方から突然映画化の話が来たとのこと。打ち切りでしかもずいぶん前に連載が終わっているものをジブリで映画化したいなんてどんなサルベージだよって話ですよ。たまたま「進路に迷う男女の甘酸っぱいラブストーリー作品を作りたいけど適当な原作転がってないかなぁ」っていう流れで奇跡的に「耳すま」が発掘されたというなら話は別ですが、どう考えても柊サイドが売り込んだ方が確かに自然ですわな。誰か売り込んだのかはともかく。柊サイドとしては打ち切りで埋もれていた作品を拾ってもらえたわけで、多少の設定変更はアリだったんじゃないかと。しかも、先に示したとおり原作の「耳すま」はラブストーリー主体で、しかも雫が航司にあこがれていたり、聖司が雫姉のことを好きなんじゃないかと雫が勘繰る描写があったりして、多角関係にしようとした気配があります。実際、その前に連載していた「星の瞳のシルエット」はモロ多角関係の話で、くっついたり離れたりの話だったわけですから、打ち切りにならずに原作続けていても多分多角関係の話になっていたでしょう。私なりの結論としては、柊サイドから売り込んだかもしれないしそうでないかもしれない。しかし誰かが「耳すま」をパヤオに推薦しない限り、映画化はなかった。という感じです。
最後になりますが、原作好きな男というのはいるものです。ああいうベタなラブストーリーに弱い男も多いです。原作を見せたことで原作にもハマってしまった可能性があります。もっとも、100円マンガを返すのが面倒くさいだけかもしれませんが。